物覚えもっと雑記帳

思考整理の為の超個人的な場所 ほぼ絵の話 一部noteにも転載

絵を描くことにめげそうになった時に読む詩と文学作品

(4/28 引用を1つ増やしました)

お久しぶりです。気が付けば二か月近く開いてしまいました。メインブログの方も放置していて恐縮です…。

 

間のことは気が向いたら書くとして、今日はタイトルの通り、自分が絵を描くことにめげそうになった時に読み返している詩と文学作品を3つ紹介します。

内容やポイントについて詳しく触れている余裕はないのですが、どれも自分が絵を描く上で共感でき、読み返す度に元気ややる気をもらえる作品です。気が向いたら是非読んでみてくださいね。

 

 

石垣りん「不出来な絵」

詩集「私の前にある鍋とお釜と燃える火と」収録。転載…はよくないんですが、検索するといくつか載せているページが出てくるので↓

不出来な絵 — Crossroad of word (sakura.ne.jp)

愛(かな)しい詩歌・高畑耕治の詩想 |石垣りんの詩。不出来な絵、不出来な詩が好き。 (ainoutanoehon.jp)

 

↓特に共感するのがこの部分。

そのかげで/私はひそかに/でも愛している/自分が描いた/その対象になったものを/ことごとく愛している/と、きっぱり思っているのです

好きな俳優などの模写でも二次創作でも根底にこういう気持ちがあるんですよね。

 

太宰治「鴎」

こちらは青空文庫で読めます。短い作品です。

太宰治 鴎 ――ひそひそ聞える。なんだか聞える。 (aozora.gr.jp)

これは小説(文学)に対する思いの話で全編に共感できる(当てはめられる)わけではないのですが、以下のあたりの文章を都合よく解釈して励ましにしています。

 

私は、小説というものを、思いちがいしているのかも知れない。よいしょ、と小さい声で言ってみて、路のまんなかの水たまりを飛び越す。水たまりには秋の青空が写って、白い雲がゆるやかに流れている。水たまり、きれいだなあと思う。ほっと重荷がおりて笑いたくなり、この小さい水たまりの在るうちは、私の芸術も拠よりどころが在る。この水たまりを忘れずに置こう。

 

歯が、ぼろぼろに欠け、背中は曲り、ぜんそくに苦しみながらも、小暗い露路で、一生懸命ヴァイオリンを奏している、かの見るかげもない老爺の辻音楽師を、諸君は、笑うことができるであろうか。私は、自身を、それに近いと思っている。社会的には、もう最初から私は敗残しているのである。けれども、芸術。それを言うのも亦、実に、てれくさくて、かなわぬのだが、私は痴こけの一念で、そいつを究明しようと思う。男子一生の業として、足りる、と私は思っている。辻音楽師には、辻音楽師の王国が在るのだ。

 

けさの水たまりを思い出す。あの水たまりの在るうちは、――と思う。むりにも自分にそう思い込ませる。やはり私は辻音楽師だ。ぶざまでも、私は私のヴァイオリンを続けて奏するより他はないのかも知れぬ。

 

有島武郎「生まれいずる悩み」

こちらも青空文庫で読めます。

有島武郎 生まれいずる悩み (aozora.gr.jp)

amazonの作品紹介↓

才能と夢と現実の狭間で苦しむ若者の肖像
作家である私の仕事場を突然訪ねてきた「君」。才能を持ちながらも絵画の道を諦め、故郷に帰らざるを得なかった「君」…。夢と現実生活の狭間で苦しむ若者の姿を描いた永遠の名作。

上の「鴎」に比べたら少し長めのお話なのですが、その中の、絵描きの描写(主人公の想像なのですが)が凄く共感出来て。私も好きな人間をしっかり描き写したいという性分があるので。以下にそこだけ抜粋します。それでも十分に長いですが。

 

(山中で風景をスケッチしている状況から↓)

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ちょうど人の肖像をかこうとする画家が、その人の耳目鼻口をそれぞれ綿密に観察するように、君は山の一つの皺しわ一つの襞ひだにも君だけが理解すると思える意味を見いだそうと努めた。実際君の目には山のすべての面は、そのまますべての表情だった。日光と雲との明暗キャロスキュロにいろどられた雪の重なりには、熱愛をもって見きわめようと努める人々にのみ説き明かされる貴たっといなぞが潜めてあった。君は一つのなぞを解き得たと思うごとに、小おどりしたいほどの喜びを感じた。君の周囲には今はもう生活の苦情もなかった。世間に対する不安も不幸もなかった。自分自身に対するおくれがちな疑いもなかった。子供のような快活な無邪気な一本気な心‥‥君のくちびるからは知らず知らず軽い口笛が漏れて、君の手はおどるように調子を取って、紙の上を走ったり、山の大きさや角度を計ったりした。
 そうして幾時間が過ぎたろう。君の前には「時」というものさえなかった。やがて一つのスケッチができあがって、軽い満足のため息とともに、働かし続けていた手をとめて、片手にスケッチ帳を取り上げて目の前に据すえた時、君は軽い疲労――軽いと言っても、君が船の中で働く時の半日分の労働の結果よりは軽くない――を感じながら、きょうが仕事のよい収穫であれかしと祈った。画学紙の上には、吹き変わる風のために乱れがちな雲の間に、その頂を見せたり隠したりしながら、まっ白にそそり立つ峠の姿と、その手前の広い雪の野のここかしこにむら立つ針葉樹の木立ちや、薄く炊煙を地になびかしてところどころに立つ惨みじめな農家、これらの間を鋭い刃物で断ち割ったような深い峡間はざま、それらが特種な深い感じをもって特種な筆触で描かれている。君はややしばらくそれを見やってほほえましく思う。久しぶりで自分の隠れた力が、哀れな道具立てによってではあるが、とにかく形を取って生まれ出たと思うとうれしいのだ。
 しかしながら狐疑こぎは待ちかまえていたように、君が満足の心を充分味わう暇もなく、足もとから押し寄せて来て君を不安にする。君は自分にへつらうものに対して警戒の眼を向ける人のように、自分の満足の心持ちをきびしく調べてかかろうとする。そして今かき上げた絵を容赦なく山の姿とくらべ始める。
 自分が満足だと思ったところはどこにあるのだろう。それはいわば自然の影絵に過ぎないではないか。向こうに見える山はそのまま寛大と希望とを象徴するような一つの生きた塊的マッスであるのに、君のスケッチ帳に縮め込まれた同じものの姿は、なんの表情も持たない線と面との集まりとより君の目には見えない。
 この悲しい事実を発見すると君は躍起となって次のページをまくる。そして自分の心持ちをひときわ謙遜な、そして執着の強いものにし、粘り強い根気でどうかして山をそのまま君の画帖の中に生かし込もうとする、新たな努力が始まると、君はまたすべての事を忘れ果てて一心不乱に仕事の中に魂を打ち込んで行く。そして君が昼弁当を食う事も忘れて、四枚も五枚ものスケッチを作った時には、もうだいぶ日は傾いている。

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ちなみに、実は初めて読んだとき何故かボロ泣きしてしまいました…笑。でも自分の中の喜びや苦悩がそっくりそのまま描写されているようで、分かってくれる人を見つけたような気持ちで。

 

 

いかがでしたでしょうか。一口に「絵」といっても、描くものやその理由も人それぞれでかなり幅広いので、全く共感出来ない人もいると思いますが…。私の他にも同じ理由で刺さる方がいたら嬉しいです。