物覚えもっと雑記帳

思考整理の為の超個人的な場所 ほぼ絵の話 一部noteにも転載

AI絵生成が絵を描く行為に感じられない理由2

AIでの絵生成がイラストを描く行為の延長線上に感じられない理由」の補足と追記。

 

要は作り手の意思の介入のさせ方が全然違うよなと。
視覚頼りに手作業(3Dや写真でもカメラを向け視覚を切り取る作業がある)でビジュアルを作り出すのと、言葉という概念からビジュアルを作り出すの、つまり視覚→視覚と言語→視覚ではやってる事があまりに違わない?という…。

(ここはTwitterで書いたこと。以下は書きおろし。)

 

数か月前に絵のコンテストでAI絵が優勝した件を思い返した。

優勝者としてはあくまでツールを利用して描いただけ、しかもイメージに近づける為物凄い回数の修正をかけて出力した…みたいなことが書かれていたのだが…。聞いた当時は、脳内のイメージを再現したというならその出力する術が変わっただけってことでまあ良いんじゃない、くらいに思っていた。

 

だがあらためて考えてみると、本当に最初から脳内にあったイメージに近づけただけなのか、実際は偶発的な要素の方が強いのではないのか?と考えてしまう。勿論手で描いている人だって、初期の段階ではぼんやりしたイメージしかなく、修正を重ねていく上で偶発的に生まれていくということも大いにあるだろう。そこには程度の差しかないかもしれない。

 

しかし何よりAI不使用の絵と違うと思ったのは、自分の手でキャンバスを(おそらく全くまたはほとんど)いじっていないということ。前述の通りコラージュであっても自分でキャンバス(作品)に直接手を加えるという作業がある。しかし「言葉での指定」は「自分で手を加えた」と言って良いのか。それはいわば代筆に近いのではないか。

 

細かい指示を出して他者に描かせる・作らせるのは監督作業であって、「描いた人」とは言えないのではないか。ほぼアシスタントのみの手で描かれたものをその人の作画と言えるか、生徒が描いた絵のほとんどを先生が塗り潰すように描き上げた絵を生徒の作品と言えるか。「絵の代筆」は本当にその人の作品で、見る人もそう捉えてくれるだろうか?

…そんな風に思う。