絵を描くことに関して、あまりにお金と時間がかかりすぎている。
デジタルはまだしも、油絵の画材代、加入している協会の会費、年一回の展示会費用、週一で通っている絵画クラスの月謝とそれに関する費用…。多分、他人がぱっと想像するよりはるかに高額だ。
私の絵はお金にならない。
いや、しようと頑張れば、どうにかいくらかはプラスに還元することが出来るだろう。
でもその労力に気が向かない。自信も無いし、仕事として絵を描くことに対する憧れはあっても、具体的にこういうのが楽しそう・こういうのをやりたいという気持ちを持てない。何か足がかりになることが一度でもあれば、やりがいや喜びを見出せて変われるかもしれないが、今のところはない。
兎に角金と時間がかかるばかりで展望が全く見えず、何らかの期待も希望もない。だから、そんな風に何にもならないものに貴重なお金と時間を費やし続けているのが、馬鹿馬鹿しくて情けなくて惨めで、無性に恥ずかしく感じられて仕方がない。それでも「楽しい」「上手くなりたい」という気持ちはどうしてもあって、それが何より勝ってしまう。それだけで続けている。いっそそんな気持ち無くなってくれればとさえ思う。
何故そんな風に感じてしまうのか?
絵というものは、作品として、何らかの付加価値を持って世に出回っているものだからだろう。絵を描く=作品を出す行為。言葉にすると大層な感じになってしまうが、金になるかどうかは別として、要は何らかの「成果物」が生まれる行為だ。
しかし私が生み出せる成果物は、いくら金や時間を大量に費やしたところで、現状、具体的な(物理的な)付加価値の無いものにしかならない。金と時間を恐ろしいほど費やして、無意味で無価値なものをただ生み出し続ける。そしてこの先も何か、上達の為以外の努力をしなければ、そうであり続ける。これが虚しさや惨めさの原因。
別に、割り切って楽しんでいる「お金に換えない(られない)人」を、馬鹿にしたり下に見ているわけではない…つもりではいる。
なのにそんな風に感じてしまうのは、「金と時間をそこまで費やすならその分当然、多少なりとも付加価値のあるものをつくって世に出せるようになるもの」という思い込みが、無意識にでもあるからかもしれない。
また、「単純にお金をかけて学びに行く=娯楽ではなく具体的に何らかの役に立つことを得る為」という認識もあるからかもしれない。実際最初の習い先や加入している協会でも、お金や社会に還元することが目的の一つにあり、推奨もされている。
それに、プロ(商用の作品をつくる)人が多く目につく中で、「上手くなる・他者に受け入れられる作品がかけるようになる=逆説的にお金などの価値が付いてくる」と当たり前のように感じられてしまっているのもある。実際、良いものが描けるようなら、商品として扱いたい・お金と交換して欲しいと思う人が寄ってきやすい、または自分からアプローチしてそれに繋げられる事が多いというのも確かだ。
だけど考えてみれば、本当はそれは必然でも必須でもない。
他のことで考えてみれば、成果物の無い娯楽にお金と時間をかけるのも、自分の喜び以上の意味のないことを学ぶのも、別に普通のことだ。例えば料理とかゴルフとか。ただ楽しむだけの旅行に大金を費やし、ついでにその為の語学を学んだりとか。PCゲームなんて高価なマシンが必要だし、長時間を費やす人も多いが、別に成果物も無い。
だから私も、今後は「自分が絵を描くこと」の位置付けを変えたい。
絵を描くことは付加価値を生み出すことにもなり得る行為だけど、上達して行きつく先がそれだという思い込みは捨てる。意味のある成果物を生むべきなんて認識を止める。ただ楽しんで作って、美味しく味わう、見返りはそれだけで、成果物というより排泄物が出る、そんな感覚のものにしていきたい。
そういう位置づけのものに出来れば、この、時間や金を恐ろしく無駄に費やしているという感覚と、将来の展望が見いだせないことに対する、後ろめたさや虚無感や羞恥心などから、多少は解放されるかもしれないから。